文字サイズ
(2024年版)ナイル川クルーズ船に3泊!エジプト南北周遊8日間
↑↑2024年版ツアーは、下記の過去ブログとは異なる旅行条件・行程・内容です。予めご了承ください。
脱線を繰り返し、
ようやく戻ってきたカルナック神殿の本線
長い道のりでした(私のせい)
脱線でお話ししたようにカルナック神殿はアメン神に捧げた神殿です。
大部分はアメン神域ですが、
この他にムトの神域、モンチュの神域から構成されています。
アメン神域を正面に見たら、右にムト神域、左にモンチュ神域です。
第一塔門をくぐると中庭があり、ラムセス3世(第20王朝/在位:紀元前1182年-紀元前1151頃)の神殿があります。
中庭を過ぎ、第2塔門を抜けると
大列柱室どーーーーん
列柱が大きく、昼間でも光が入りません。
中央の12本は開花パピルス柱といって
柱の上部が開花している石柱です。
それ以外の上部がつぼみになっている柱を未開花パピルス柱といい、122本あります。
王や王妃のレリーフ、ヒエログリフや王名標(カルトゥーシュ)で埋め尽くされてます。
列柱室を抜けると第3塔門
第3塔門に並行してほぼ崩壊してしまった部屋があります。
古代においては非常に壮麗で、アメンヘテプ3世(在位/紀元前1386年-紀元前1349年)によって黄金で覆われていたと言います。
トトメス1世(在位/紀元前1524年-紀元前1518年)によって築かれた
第4塔門 第5塔門と続きます。
この第4塔門と第5塔門の間に、かつては列柱があったとか
この区画が神殿のもっとも古い部分にあたるそうです。
また、この場所には現在2本のオベリスクがあります。
元々はトトメス1世が対の2本、ハトシェプスト女王(在位/紀元前1498-紀元前1483年頃)が対の2本で
計4本ありましたが、今は1本ずつ残っています。
ここからいなくなったオベリスクのうちの1本はトルコのブルーモスクの隣の競技場跡地に持ち出されています。
エジプトから持ち出されたのは紀元4世紀のビザンチン帝国の時代でした。
第6塔門先に至聖所があります。
カルナック神殿はこの至聖所から始まったそうです。
テーベの地方神の小さな神殿からここまでの規模に発展です。
至聖所の先のアメン神域の一番奥にトトメス3世(在位/紀元前1504年-紀元前1450年頃)の祝祭殿があり、
この祝祭殿の前にある大きな石、これが神殿最古の石組みの跡とか。
トトメス3世の祝祭殿の南側に、聖池があります。
そのそばにあるスカラベを反時計回りに何回かぐるぐるすると幸せになれるとか。
3回説や7回説があるようです。
いっぱい回ります。
第4塔門右手側ハトシェプスト女王により着手された南側のムト神域、さらにルクソール神殿に続く構成がなされています。
ここでもう一度地図です。
第4塔門を過ぎ、第7塔門第8塔門第9塔門と続き
第9塔門と第10塔門の間の東壁に復元されたアメンヘテプ2世の祝祭殿があります。
第7塔門までは現在訪れることができるそうです。
ムト神域は主にアメンヘテプ3世(紀元前1386年-紀元前1349年頃)の治世下に構築され、ギリシア=ローマ時代まで使用、改築されたとみられています。
ムト神域入口から伸びるもう一つのスフィンクス参道はおおよそ3キロ先のルクソール神殿まで続いています。
アメンヘテプ3世治世下にこの参道はあったと考えられていますが、
スフィンクスを追加したのは第30王朝のネクタネボ1世(紀元前380年-紀元前362年)だそうです。
約1000年後
ムトとは
アメン神の妻であり、母(乳母)であり、娘である、
だそうです。
ヨクワカラナイ
現在は続いていないのですが、このカルナック神殿からルクソール神殿へ続く参道を修復し、
古代のようにつなげるとかなんとか。
繋がったら歩きたいです。
アメン神殿複合体の北側にモンチュ神域があります。
モンチュないしメンチュ、モンチュウとも呼ばれます。
第11王朝(紀元前2134年頃-紀元前1991年頃)で特に熱心に信仰され、メンチュホテプを名乗るファラオが複数存在します。
その数、第11王朝のファラオ7人中4人
戦いの守護神とされ、冥界を進むラーの乗る船を悪霊から守ると考えられていました。
ムト神域から参道を通った気分で、ルクソール神殿へ参りましょう。